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武蔵野航海記

武蔵野航海記

一山衆徒

比叡山には何度か行ったことがあります。

「般若湯」を売る酒屋まである高野山とは違って、いかにも修行の場という感じが漂っています。

天台宗比叡山延暦寺はまさに日本の仏教の中心地ですね。

浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗という鎌倉仏教の開祖は全て比叡山で修行していました。

今でこそ比叡山は、「お寺です」という顔をしていますが、戦国時代までは寺というより「大名」でした。

全国に膨大な荘園を持ち、強力な僧兵を抱えていました。僧が武器を持って兵隊になったわけではありません。

都の公家の荘園の管理人が武装して侍になり、本所の公家に仕えたのと同じです。

比叡山の荘園の管理人が武装して比叡山に仕えただけです。寺に仕えるので武士の格好では都合が悪かったのでしょう。頭を剃ったのです。

武蔵坊弁慶も比叡山の僧兵でしたが、お経など読めなかったのではないかと思っています。

源平の争乱から戦国時代まで、各地の大名は興福寺や比叡山を完全に大名と考えて、同盟を結んだり戦ったりしています。

武田信玄が遥かな甲斐から都に攻め上り、織田信長を蹴散らそうと決断したのも、比叡山と同盟を結ぶことが出来たからです。

比叡山の座主は、皆天皇家か藤原摂関家の一族で強力な人脈を持っていました。

鎌倉初期の座主で「愚管抄」の著者として有名な慈円も、法性寺関白藤原忠通の息子でした。

比叡山はその強大な勢力を背景に、大名と戦うだけでなく、朝廷に強訴したり三井寺や興福寺など他の「大名寺」と戦ったりしています。

合戦をするなどというような重要な決定は、比叡山の全員「一山衆徒」で会議を開き決めていました。

全員が覆面をして暗い夜中に集まりました。

こうなると皆が僧衣を着けているので誰だか分かりません。

身分の上下を問わず全員が一票を平等に持つ無記名の議決が行われたのです。

具体的に投票したのか、「賛成」「反対」の声の多さで判断したのかは、私の知識不足で分かりません。

いずれにしても、多数決で決めたのです。

一山衆徒の多数決で重要なことを決める習慣は、天台宗から分かれた宗派にも受け継がれました。

天台宗から分かれた浄土真宗にも当然ですが、多数決の原理が入り込みます。

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、都の下級公家の息子でしたが比叡山で修行した後、法然上人に弟子入りして浄土教に目覚めます。

そして最終的に浄土真宗を創設します。浄土真宗は革命的な宗教です。

「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人おや」という名文句を、親鸞聖人ははきました。

平安時代末期の1052年に、末法の世に突入したと当時日本人は考えました。お釈迦様の死後二千年が過ぎて、修行が行われない世の中になってしまったのです。

修行をしないと仏教の目的である成仏が出来ません。その厳しい修行を行う人間が居なくなったわけですから、仏教界はやけくそになりました。

もともと日本の仏教は戒律に対して甘い態度でしたが、親鸞聖人はついに居直って、「修行をする必要はない。阿弥陀仏を信じれば良い」と仰ったのです。

なにやらキリスト教に似てきました。

お釈迦様の定めた戒律を守って修行をしている人(善人)は、極楽に行けると安心して弛んでいます。そんな人でも極楽に行くことが出来ます。

ましてや、修行をしたくても出来ない人(悪人)は、非常に謙虚ですから一心に阿弥陀様を信じて頼ります。極楽に行けないはずがないのです。

親鸞聖人の死後暫くは、浄土真宗は全然流行りませんでした。

しかし親鸞聖人の子孫で6世法主蓮如上人は、組織つくりの天才でした。

彼が生きていた室町時代はものすごい勢いで世の中が変わっていましたが、彼はその時代の本質を見抜いたのでした。

日本の歴史を二つに分けるとすれば、鎌倉時代と室町時代の間に線を引くことになるでしょう。

その前と後では、あらゆることが違います。

鎌倉時代までは日本の農業技術及び土木技術はまだ幼稚な段階でした。

大規模な用水路や堤防を作れなかったので、大きな平野を田圃にすることが出来ず、山の麓の狭いところで農業をしていました。

飛鳥や出雲など古代の都は山の麓にあります。
当時はここが生産の中心地で、人口密集地だったのです。

小さな流れは不安定なので、田圃はすぐに荒廃しました。水田だけでは不十分なので、焼き畑農業も盛んでした。

日本の政府は奈良時代にチャイナから律令制度を導入し中央集権制度を作り上げようとしました。

その基本が農民の戸籍を作り、年貢を取り立てることでした。

ところが当時の農民は農地を求めて頻繁に移動しましたから、まともな戸籍が作れませんでした。

よその国の制度をそのまま持ってきても、上手くいくわけがないのです。

戸籍から漏れた農民を保護し利用したのが地方の有力者で、彼らに未開墾の土地を開かせました。

古代以来の豪族や土着した国司の子孫が、これらの農民を収容したのです。

農民にしても、政府から割り当てられた水田は荒廃して農業が出来ないのに、年貢はたっぷりとられるので、こちらの方がましでした。

土地を開墾した地方の有力者は、折角の土地を国家に取られるのを防ぐために、その土地を名目上都の公家に寄進しました

これが「荘園」の起こりとなったことは皆さんも十分承知のことと思います。

開発した地主は荘園の管理人となりましたが、これが武士の起源です。

この名目上の所有者である公家が勝手なことを言ってくるのに嫌気がさして、武士が頼朝を担ぎ上げて自己主張したのが鎌倉幕府です。

この古代からの日本の前提が崩れたのが室町時代です。

土木技術の発達により、淀川や木曽川などの大河の下流で安定した田圃を作ることが可能になりました。

このときになって初めて、多くの日本人が定住生活を始めます。そしてこれが日本を大きく変えます。

まず、お米が沢山取れるようになって、人口が増えました。

山麓から平野に農民が移動したことによって、平安時代以来の「荘園」が落ち目になり遂には消滅しました。

農民が定住し大きな集落を作りました。これが惣村です。

今の日本の村の四分の三は、室町に出来た惣村が起源です。

この新しく出来た惣村に目をつけたのが蓮如でした。

この惣村のリーダーが「国人」です。
彼らは村の地主で、年貢を絞りに来る大名に反抗的でした。

この国人と本願寺(浄土真宗の本山)が結びついたのです。

本願寺が派遣した坊主と村のリーダーたる国人が中心になって、浄土真宗の信者組織である「講」を作り上げました。


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